後編は10年前、2013年に原が八戸から、再び奄美に戻り県立大島病院に着任した時に10年後の奄美の医療の姿、原が目指す10年後の奄美の医療の姿を記録として残していたので、それをまず振り返りたいと思います。そして、それがどこまで達成されたか。なぜ今、原はみんなの診療所という場所を選択したのか。そして、さらに10年後どんな奄美の未来を目指しているのかについて想いを綴ってみたいと思います。
<2013年に描いた10年後の奄美の未来>
2013年、八戸から奄美に再び帰ってきた原は、当時の上司服部先生と二人で救急科をたちげることになりました。と、いっても、救命救急センターが開設するまでは診療科としての救急科はつくらいないと県病院に言われていたため、服部先生は元々所属していた麻酔科、原は病院から好きな診療科を選んで良いと言われたので、総合内科所属としてもらい、『公式には席のない救急科』が立ち上がりました。その辺りの振り返りについては過去にも文章にしたので今日のある方はこちらをご参照ください。
https://note.com/junhara/n/n916411b9aecc
この年、私は大学の同期の声かけで沖縄で講演をする機会を頂きました。そして、同じ年にはへき地離島救急医療学会が八戸で開催されました。その際のスライドやポスターをお示ししながら、10年前、原が何を目指していたのかを振り返ってみます。
これを作った当時は、先ほど言ったように、病院には救急科は正式には存在せず、救急科の仕事そのものが院内には存在しませんでした。そこから徐々に自分の居場所を、仕事を見つけ、救急科自体を正式に誕生させるところからが私の仕事でした。

救命救急センターが開設されることはすでに決まっていましたが、ドクターヘリが導入されるかは当時まだ未知数でした。というよりは、むしろやらないとさえ言われていた時期でした。それでも、しかし実際には奄美ドクターヘリは今では当たり前のように奄美の空を飛びまわっています。当時原は『奄美救命』という旗の下に奄美の医療の未来を描いていました。それは『救急』ではなくあえて『救命』でした。『救急』部は『救急』の『前』と、『救急』の『後』がどうなっているのか知らない人が『救急』をやっている場合が少なくありません。それでは十分理想的な『救急医療後の救命の質の担保ができない』と感じていました。しかし、都会では『救急』だけで症例が多すぎて、その『前』と『後』に関わることが事実上不可能な場合が多いので、仕方ありません。ところが、奄美は幸い、人口が少なく症例数はそれほど多くありません。うまくいけば、救急の『前』、『真っ只中』『後』全てに関わりながら点ではなく、線で関わりを持ち、『救急』のみでなくその前後の『救命』の質全体を追求しながら医療に取り組めるのではないかという可能性を感じていました。
診療科同士の垣根を低くし、医療機関同士の垣根を低くし、少ない医療資源を有効に役割分担し、時としてお互い行ったり来たりしながら、連続的にその行く末を見守ることができるシステムを構築することができるのではないかと。そして、それこそが奄美大島流地域医療のあるべき姿なのではないかと、当初から考えていました。それが下の図のような構図です。

この当時は県立大島病院にいましたので、大島病院を中心とした図です。この図で言うと、今は救急科は中村先生が、総合内科は森田先生がしっかりと支えてくれていますので、もう安心です。地域医療に接続する部分は県立病院内に作るという選択もとても良いと考えていましたが、いろいろな判断の結果そうはなりませんでした。この図で言うと奄美救命のコンセプト実現のために一番欠けているところが地域と県病院とが接続する部分であるというのが、みんなの診療所を始める一つの大きなきっかけになりました。特に県病院(及び県)、医師会、徳洲会、市町村、この4者のつながりが不十分なように感じました。
さらに、この当時から原は救急医(集中治療医)や総合診療医や家庭医という臓器や年齢にとらわれずに横断的に診療を行う診療科を、診療する医療のフェーズ(急性期、慢性期)や外来や在宅中心なのか病棟中心なのか(家庭医や病棟総合医)の区別で差別化することにより違う診療科として扱うことに違和感を感じていました。それは地域の人口規模が小さくなればなるほど無意味であるように思えたし、場合によっては逆に自分達の首を自分で締めることになるとさえ感じていました。そんな思いの中で原は『自分の役割は、その他の診療科や医療機関が埋めることができていない奄美の医療の隙間を埋めること』だと10年前にはすでに感じていました。その思いに自分の身を任せてこの10年も過ごしてきました。10年前の沖縄講演の最後のスライドは次のように締めくくってありました。

10年前にはすでに、いわゆる町の医者になりたいと思っていたのです。そのためにはそうできるようにしなければなりませんでした。服部先生から受け継いだ救命センター長の役目を私の次に高間先生が引き継いでくださり、その後、今年からは中村先生が音頭をとってくれています。総合診療は森田先生を中心として盛り上げてくれています。そして、私は地域へと出ました。
**科専門医である原ではなく、奄美で地域医療をするただの医者の原へと変化している途中です。その途中過程として、内科学会は退会しました。旅行医学会の認定医は失効しました。プライマリケア連合学会の認定医は更新しませんでした。今後今のままだと、救急科専門医も更新はおそらくできないでしょう。DMAT隊員資格も更新できない可能性が高いと思います。航空医療学会認定指導者も次の更新はできないかもしれません。しかし、それならそれで良いと原は感じています。自分が何者であるかを資格で証明することは、奄美という医療資源が決して潤沢でない地域で医療を行う上で必要だとはあまり思いません。もし、医師が人口数万の地域で、地域に必要とされる医療を長く行おうと思った時、**専門医という肩書きがないと不安で安心して働くことができないのだとしたら、おそらく奄美のような人口規模の地域ではいつまで経っても地域医療の担い手が充足することはないだろうと感じます。自分が何者であるかを支えてくれる証は仕事の内容や資格ではなく、その地域そのものにあるべきであると感じているからです。同じ意味で『離島医療』という言葉は私はあまり好きではありません。『離島』であることは奄美地域の特徴の一つに過ぎす、その一部を誇張してグループ分けすることは、**科専門医と同じように、他の地域医療と『離島』とが特別に区別されるべき何かであると言おうとしている感じがして、自分達のが行っている医療の姿をある視点に固定してしまう、狭めてしまう行為に見えるからです。ですから、私が行っている医療を何か特徴づけ要素があるとしたらそれは『奄美』というただ一点でそのほかに何の付け足しも必要ないと感じています。
私は全ての資格を失ったとしても、奄美に根を張って奄美で必要とされる医療をただ淡々と実践していくことに迷いはありませんし、誇りを持っています。地域で働く医師がそのような気持ちになれない限り、そして医療業界でもそれが十分評価される世の中が来ない限り奄美のような人口規模の地域医療にスポットライトが当たることはないのではないかと感じています。
<10年後の奄美の未来>
ここからは箇条書きにしていきます。
1)人口が減少し奄美の医療がダウンサイジンされるその時を乗り越えなければならない。
県立病院や大島郡医師会病院もそのうち建て替えの時期がやってくるはずです。その時にどのような規模となり、どのような診療科が残るかは注意が必要だと思っています。その時生じる、奄美の医療の隙間を埋めるのもみんなの診療所の使命と感じています。その変化に対応できる準備を診療所としても行っていかなければならないと感じています。
2)市町村の医療への関わりがもう少し必要だと感じます
特に奄美市は人口規模に対して市政における医療への関わりが薄いように感じています。先ほども述べたように、地域の医療機関や市町村が組織の垣根を越えて情報交換が必要な場面では奄美市の演じる役割は奄美群島全体を見渡しても大きいはずだと感じています。例えば、新型コロナ対策や災害時などは特にそれを痛感しています。また、ドクターヘリ未満、民間航空機や船舶以上という中等症症例の島外搬送などにも市町村の関わりが今後必要になってくると感じています。医療のことを医師会を中心に取りまとめると、徳洲会が抜けてしまうのも情報共有という意味では県病院時代からいつも困っていました。奄美市と瀬戸内町に住んだことがあり、奄美市と瀬戸内町と龍郷町で働いたことがあり、開業医としても、県病院職員としても徳洲会職員としても働いたことがある原はこの状況打開のために何かお手伝いできることがあるのではないかと考えています。それがどのような形としてかは今後の地域の流れを感じながらということになります。
3)もっと地域へと出ていきたい
日常生活の中にもっと普通に医療が存在する形を想像しています。そのためのアクションも今後起こしていきたいと思います。
奄美の医療がこれからも明るいものとなるよう、安心して住める島になるよう、自分に何ができるかを考えながら次の10年も過ごしていきたいと思います。明日から診療所3年目のシーズンです。今後とも皆様のサポート、応援よろしくお願いいたします。
感動しました。頑張って下さいとしか言いようがないです。
えひ先生
お返事遅くなりました。ブログお読みいただき有り難うございます。そして嬉しいコメントありがとうございます。自分が奄美に移住した証を残せるように頑張ります。