2004年に医師になった私。初期研修終了後医師3~5年目は後期研修医にはならずに奄美大島の60床の病院、瀬戸内徳洲会病院でどっぷりと地域医療に浸かりました。その後、救急の修行に八戸に赴き八戸市立市民病院救命救急センターで4年間を過ごしました。医師10年目で救急科のなかった県立大島病院に救急科/救命救急センターの立ち上げのため赴任しました。手探りでチーム作り、仕組みづくりに奔走しました。ですが、県組織の成長の限界を感じ2020年に独立開業しました。医師としてしっかりと教育システムが整ったところでの経験は6年間のみで、今年で医師22年目です。これまでの私は、自分の医師としてのキャリアには満足していましたが、他の誰かに同じ道を勧めることはできませんでした。
多くの医師は医師3年目で専攻医となりますが、私はなりませんでした。
都会の便利な生活を望めば働き口はあったでしょうが奄美大島という離島を選びました。
救命救急センター長だった約2年間を除き大学医局に属していたことがありません。
40歳になると同時に個人事業主として奄美で開業する決断をしました。
この一つ一つの決断に自分の中には確固たる意思があったので、自分の進んできた道に迷いはありません。家族との生活も含めて、今が一番幸せだと心の底から思えます。でも、このイレギュラーな決断の連続を他の誰かに勧めることができるかと言われると、正直自信がありませんでした。医師免許さえあれば多少自分の希望と異なる条件だったとしても、たいていの場合、自分の働きたい場所で、働きたい診療科で働くことができ、少なくとも生活に困らない程度の収入は得ることができるはずです。医師になるための教育を受けてくるためにはご両親のサポートも大いに必要だったでしょうから、医師になった後もそれを完全に無視してキャリアを選ぶこともできないかもしれません。結婚して家庭を持てば、家庭の事情で自分一人でキャリア選択をすることも難しくなります。そんなことを考えていたら『君も一緒に奄美で働こう。奄美の地域医療は楽しいぞ!』と安易に声をかけることはできませんでした。もっと、確実で、安定して、周囲の理解の得られやすい選択肢はいくらでもあるはずだからです。でも、最近は少しずつ考えが変わってきました。私の周りの仲間たちが、私の考えを少しずつ前向きな方向へ、肯定的な方向へ導いてくれました。時系列でそれを少し辿ってみたいと思います。
まず、前編として、医師原純の基礎を作ってくれた同僚や先輩方についてお話しさせてもらおうと思います。そして、後編として、県立病院やみんなの診療所で一緒に働いた仲間について、書いていきたいと思います。

<研修医/瀬戸内徳洲会の時のつながり>
*研修医の時の同期、丸谷先生は今も奄美大島の小児科外来に関わってくれています。1年先輩の小山先生は湘南鎌倉病院からいつも私の活動を見守ってくれています。内科ローテーションの時の上司、廣田先生は今でも漠然とした私の憧れです。脳神経外科金子先生は名瀬徳洲会病院で時々診療されており、丁寧なお返事をくれて優しさを感じることが多いです。離島研修で初めて瀬戸内徳洲会に行った時、外科医として私の指導をしてくれた近藤先生。学年の近かった近藤先生の存在がなかったら、3年目に瀬戸内に残る選択は思い描くことができなかったと思います。決して現在の接点は多くありませんが、福岡徳洲会病院で過ごした2年間は医師としての私の基礎を形成してくれた場所であり、そこでの人のつながりは私の心の支えとなっています。
*瀬戸内徳洲会時代のつながり
・当時の院長北原先生:穏やかな中に信念があり、未熟な私にあえて全てを任せてくださいました。『偉くなること、最先端を走ることも尊いが、最前線もそれと同じように尊い』『何かをしない理由は星の数ほどあるけれど、何かをする理由はたった一つしかない。それはした方が良いからです』この2つの言葉は今、私の中の何かを決断するときの大切な指針となっています。
・満元先生:当時から名瀬徳洲会病院の外科におられた満元先生。『腹を括ってるやつとそうでない奴はすぐわかる!』の言葉に満元先生の覚悟を感じました。私はその当時、満元先生にどのように映っていたでしょうか? 外科症例があると、手術だけしにきてくれて、術後は私に任せてくれました。手術適応に迷った時は夜中でも、患者さんの診察に来てくれました。腹部診察だけして、『待機手術で大丈夫だから帰るぞ』と、往復2時間、滞在時間10分。だから、外科医のいない病院でも私は術後を見守ることができました。今、自分にそれができるでしょうか? 私が下部消化管内視鏡検査をしていたら、その画面が突然腹腔鏡になった時も、一緒に緊急手術をしてくださいました。そして一言『明日も大腸カメラするんだぞ。合併症作ったくらいでカメラ取り上げてもらえると思うなよ。その怖さと向き合いながら明日もいつも通りやるんだからな』。今、私は自分の部下にそれが言えるでしょうか? そして、『システムを作れ!お前が抜けても病院が回るようにシステムを作れ!』と言われた言葉は今でも私の中のキーワードの一つです。
・循環器科生野先生:心電図所見などに自信がもてず、ただの心不全なのか、虚血性心疾患なのか自信が持てないと、電話口で『原が心配なら、名瀬に送っていいぞ。俺が見るから。多分そっちで診ても大丈夫だけどね。』と、不安な私を気遣って、オーバートリアージでも患者さんを引き受けてくれました。そんな生野先生の言葉『選択肢を提示して患者さんに選んでもらうのは良いけれど、最終的に命の決断をしなければならないこともあるのだから。患者さんが全てを決められるわけじゃない。その時はお前がその決断の十字架を背負わなきゃダメなんだぞ。患者さんに選択を委ねることで命の重さから逃げてはいけない』この言葉は、私の中でしっかりと生きています。患者さんの望む決断をサポートしつつ、その決断の責任は主治医としてしっかりととる。生野先生からはその心を教わりました。
・名瀬徳洲会病院副院長 平島先生:研修医時代の1年後輩でもある平島先生。今は名瀬徳洲会に拠点を置きながら、全国の医療機関を飛び回り、若手教育に情熱を注いでいます。瀬戸内徳洲会で一緒に働いていた時、奄美の医療を共に盛り上げようと誓い、今も所属や分野は違えど、共に奄美の医療に関わり続けていられることに幸せを感じます。平島先生に呆れられないように、背筋を正して日々を過ごしていかなければいけないなといつも感じています。
・徳之島徳洲会産婦人科宮崎先生
彼女が研修医の時、瀬戸内徳洲会に離島研修に来てくれました。元気で活発で優秀な先生という印象で多くの先生が離島研修に来てくれる中でも特に記憶に残っている先生の一人です。今は、徳之島徳洲会で島の周産期医療を支えてくれています。先生の頑張りをみて、私もいつも自分を奮い立たせています。

<八戸時代のつながり>
*今明秀先生:奄美で大動脈解離や多発外傷が救命できずに亡くなっていく様子に一矢を報いたいと思い、奄美にドクターヘリを導入したいと思い描いた医師5年目のあの日。札幌の救急医学会で突然声をかけた私の話を長いこと聞いてくださり、快く八戸救命一員に加えてくださいました。一つ目標を達成したら、その次、それを達成したらまたその次と、どんどんと新しい目標を達成していく今先生を尊敬の眼差しでずっと見ていました。自治医大の卒業生として地域医療を大切にする姿、外傷救急外科医としての姿、多くの病院スタッフや若手医師を束ねるリーダーとしての姿、そのどれをとっても到底再現できるものではありませんが、その一部でも真似をして近づくことができればと思えるような偉大すぎるロールモデルです。組織の成長のためには現状維持ではいけないという言葉とその裏に潜む苦労が、小さな医療機関でも経営者となった今、ほんの少しだけわかるような気がしています。
*八戸救命の先輩/同僚/後輩たち
最高に個性的なメンバーの中で仕事をさせてもらっていたと感じます。一人一人挙げていたらキリがないのでまとめてしまいましたが、皆日本全国から今先生のもとに集まったメンバーです。今思えば、私のように、自分の信じる道がそれだと信じて自らのキャリアを自分で描いていく人ばかりでした。あの時の仲間が今どうしているかを見れば一目瞭然です。皆様々な進路ですが、自分の道を進みそれぞれの分野で活躍しています。そのメンバーの中で4年間という時間を過ごしてこられたこと自体も、もっと自分を肯定して良い材料なのではないかと最近は思えるようになりました。あの4年間の仲間との時間は、様々な個性が同じ目的に向かっていくときに見せる爆発的な力の存在を実感させてくれるものでした。救急という臓器別でない専門性、そして地域医療という診療内容を制限しないフィールドがその多様な個性を引き寄せたのだと思います。今、奄美で自分が次の世代を担う人材を育てていきたいと思う時のヒントが、あの時の八戸救命にたくさん散りばめられていたのだと感じています。

<県立大島病院時代のつながり:上司編>
服部先生:医師はたった二人で始まった救急科立ち上げ。服部先生は責任者として診療体制づくりや救命救急センター建設や設立の準備、県との会議などを一手に引き受けてくれて、私に現場の臨床面のほとんどを任せてくれました。防衛医大卒の服部先生は組織の中でのお作法や踏むべき手順に熟知しており、大きな組織の中での立ち振る舞いについて大変勉強させていただきました。また、人に権限委譲して任せることも上手で、一人では抱えきれないものをチーム全体としてやり遂げることのうまさに感心しました。言いにくけれど言わなければならないことはきちんと相手が誰でも言い放つその揺るぎない姿勢も大変頼もしく見えました。服部先生が上司だったからこそ、私は県病院でのびのびと仕事をさせていただけたのだと思っています。それは今後私の元で共に働いてくれる仲間に同じようにしてあげられるかということが、今の私の中の大きな挑戦の一つです。
後編に続く。






