医師10年目で県立大島病院に赴任した私は、救急科や救命センター開設と並行して、指導者としての役割をさせて頂くことも増えてきました。私は指導とは与えるものだと思っていたのですが、そうではありませんでした。
私の役割は大抵の場合、自分のもとに来てくれた先生たちを信じて、任せることでした。
もちろん、患者さんを共に診て、時として自分の意見を伝えることはありましたが、彼らは皆自律的に動き、考え、学んでいきました。目の前に患者さんさえいれば、後はその向き合い方だけちょっとアドバイスすれば、皆自分たちのプロ意識と学ぶ意欲でみるみるうちに成長していきました。むしろ、その過程で私が気付かされ、成長させてもらう場面も多かったと感じます。指導者とはいうものの私は彼らと共に学び私もまた成長することができたのです。
そんな私の元で共に学び成長した仲間たちを少しずつ振り返りたいと思います。特に実際に救命救急センタースタッフとして共に働いた仲間や今も強い関わりやつながりがある方達にフォーカスを当ててみようと思います。
<県立大島病院時代のつながり:同僚編>
*中村先生:現在の県立大島病院救命救急センター長です。服部、原と二人でやってきた救命救急センターに新しい仲間が加わってくれたのが中村先生です。中村先生は島外の出身ですが、私と同様島出身の奥様がおられて、島の自然や人が大好きな青年です。常に熱く、医療に対する想いも熱く、彼との出会いがなければ私は今も県立大島病院にいたかもしれません。中村先生が来てまもなく、重症患者さんを一緒に診る機会がありました。回診の時に様々な質問を彼にしたのですが、その全てにきちんと自分の意見をしっかり持って私に答えてくれました。その瞬間に中村先生には安心して重症患者さんを任せることができると確信しました。そして、彼の周囲を巻き込む力、惹きつける力は目を見張るものがありました。その独特なリーダーシップは彼の強みであり、今も多くの組織がテーブルに上がる会議などでも、そのつながる力を存分に発揮して救命救急センター長としての職務を十分過ぎるほど果たしています。奄美の救急に対する思いをこれほどまでに共有できる仲間に早い段階で巡り合うことができたことは私にとって本当に幸せなことでした。彼になら安心して救命救急センターを任せることができる、だからこそ私は今自分の新たな持ち場に立つことができているのだと感じます。中村先生を尊敬するとともに、この巡り合わせに本当に感謝しています。
*江口先生:中村先生と共に救命救急センター立ち上げ初期を支えてくれた大切な仲間です。爽やかな好青年という感じで、人当たりがよく、飲み込みも早く、なんでも器用にこなします。それだけに本心が見えにくい場面もあるミステリアスな先生でした。救命救急センター勤務を終えて鹿児島本土に戻った後も、奄美のことや私たちのことを気にかけてくれるその気持ちに彼の優しさとゆとりを感じました。ドクターヘリで鹿児島本土に患者搬送に行き時々、顔を見るとなんとなく安心する自分がいました。まだまだほとんど実績のない救命センターに、若手で経験が大切な時期に奄美に飛び込んできてくれて真摯に患者さんと向き合ってくれました。チームで患者さんを見るという久々の経験を楽しい思い出にしてくれたのは彼の懐の深さのおかげだったと思います。

*永山先生:自治医大出身の永山先生。いわば地域医療のスペシャリストな彼と初めてあったのは2012年私がまだ赴任前の京都での救急医学会の時だったと記憶しています。研修医だった彼は真面目で熱意がありそうというのが第一印象で、救急志望であると聞いて、翌年一緒に働けることを楽しみにしていました。救命救急センター立ち上げ初期を中村先生や江口先生と共に診療を支えてくれた大切な仲間です。キャリアの途中で、より僻地の医療機関でも働いていたりして、その経験ならではの彼の医療の感覚に新たな気づきをもらうことも少なくありませんでした。自分がやっていることが自治医大の先生方に求められていることと似ているなと勝手に思っていた私は、彼らのキャリアに漠然として尊敬の念と憧れがありました。そんな永山先生と共に働けたことは少し自分が地域医療の仲間に加えてもらえたような気がしてなんとなく嬉しかったことを記憶しています。今は県外にいる彼ですが、同じ純繋がりで、ふと今頃何しているかなと彼を思い出すことがあります。きっと、今の場所でも彼らしさを発揮して奮闘しているに違いありません。
*辻先生:穏やかで、でもしっかりと患者さんと向き合ってくれる辻先生。その丁寧な姿勢は安心して患者さんを任せることができました。今後自分のゆかりのある地域のことも意識しつつ、救急というフィールドを選んでくれた辻先生。マインドして自分に似たところがあったためか、非常に親近感を感じながら仕事を共にすることができました。落ち着きのない私を比べると、彼の診療に対する姿勢は見習わなければいけないなと思う場面も多かったと記憶しています。様々な学年の医師が救命センターに来てくれるようになってきて、しっかりと屋根瓦になりつつあるなという実感を得ることができるようになってきたのもこの時期かなと思います。
*渋谷先生:若手救急医の新たな組織を立ち上げたり、救急医ながら保健所で勤務してみたりと幅の広い活動をしている渋谷先生。話をしてみると、その活動の幅の広さ同様、様々なところに発想を巡らしておりその思考の奥深さを感じました。彼と話すことで、目の前のことのみでなく、より俯瞰した目で奄美の医療を感じることも必要だと思わせくれるような先生です。これからも機会があれば彼の頭の中をのぞいて、自分の中に新しい視点が持てたらと思っています。
*高間先生:私が救命救急センターを退職することになり、その後の救命救急センター長として奄美の救急を支えてくれました。私が、安心して診療所を始めることができたのも高間先生が来てくださったおかげです。高間先生は周囲を巻き込んで、様々なことをより系統立てて、そして組織的にシステム化しようとするその計画力と行動力がとても印象的でした。鹿児島で培った人脈や今までの救急医としてのノウハウを奄美の救急に適応してくださったように感じています。こうして服部、原から高間先生へと救命救急センター長が引き継がれていくごとに新たな視点や考え方が生まれて、救命救急センターがさらに前へ進んでいく感じがしました。
*池上先生:元々内地の病院から瀬戸内徳洲会病院に赴任していた池上先生。県病院の救命救急センターの門を叩いてくれました。頭脳明晰で、後輩への指導も丁寧で的確、たとえ自分が嫌われ役になったとしても伝えなければならないことははっきりと伝えるという強い意思を持った先生でした。本来は私が担わなければ役割だったかなと反省する場面もありました。彼に私が教えられることは多くなかったと思いますが、きちんと救急科専門医取得を成し遂げてくれて、私はとても嬉しかったです。私は開業して救急の第一線を退いたため、救急科専門医の更新を断念しかけたときも、もったいないと言ってくれて、無事更新することができたのも池上先生のおかげです。彼は忖度抜きで直球の意見をくれるのでいつも彼の意見はとても信頼しています。

*森田先生:県立大島病院総合診療科部長、臨床研修センター長の森田先生。島外の出身ですが、自治医大の義務終了後に再び奄美大島に来てくださり、もう長く県立大島病院の総合診療科や臨床研修を支え続けてくださっています。まっすぐで、でも穏やかで、県組織や行政との関わりに熟知していて、奄美の医療のことをいつも自分のこととして背負っているように見えます。部長やセンター長の業務と並行してハードな臨床も一手に背負い、院外での取り組みにも全力。そんな森田先生を見ていると、私ももっと頑張らなければならないと感じます。同じ島外出身者、鹿児島大学の医局派遣ではいというような共通点を勝手に感じており、医師としての学年も比較的近いため、診療科は違えど奄美の地域医療をもっと良くしたいと願う同志としてとても尊敬し、信頼しています。実は一人仕事のことで悩んだ時に、こっそりと悩み事を相談できる数少ない信頼できる先生の一人です。
*知念先生:知念先生は総合診療科として赴任された時にご一緒させていただきました。とても優秀な先生という印象で、共に総合診療科に赴任されていた古別府先生と共に、総合診療科がとても頼もしく感じたのをとても鮮烈に覚えています。そんな知念先生は一緒に働いていた時はもちろんですが、県立大島病院を離れた後も、私のSNSでの発言などを気にかけてくださり、時としてアドバイスや意見をくださいました。最近では小徳が研究に興味があるとのことだったので、全く研究には縁のなかった私は知念先生に助言を求めると、快く丁寧にアドバイスをくださいました。その懐の深さに感動と感謝の念を抱いています。いつも本当にありがとうございます。
そのほかにももっともっと多くの出会い、学びがあったのですが、永遠と終わらなくなってしまうので、この辺りでやめておこうと思います。一緒に学んだ研修医の先生方や、地域医療に奮闘している自治医大若手の先生方の事も本当は沢山書きたいことは山のようにあります。特にふらっと奄美に流れ着いてきた私のような医師に、医学生になった頃から地域医療をすると決め、学んできた自治医大の先生方に何か指導できることがあるのだろうかと思っていましたが、皆、熱心にそして親しみを込めて私と接してくれました。本当に嬉しかったです。このように、県立大島病院の仲間と関わる中で、自分のもとで成長してくれる経験や奄美の医療を共に支える経験を通して、自分も少しは病院や、奄美や、同僚の役に立てているのかもしれないと思えるようになってきました。奄美という土地に魅力を感じて、そこで時を過ごし成長くれる、共に切磋琢磨してくれる、そんな仲間がいることで自分の医師としての今までを少しだけ肯定しても良いのかなと思えるようになってきていました。そんな仲間と一緒に時間を過ごすことができた7年3ヶ月は私にとってかけがいの時間でした。
<みんなの診療所でのつながり>
診療所のスタッフとのつながりも私にとって最高の宝物なのですが、今回は医師同士の繫りにフォーカスを当てて書かせてもらいます。2020年7月にみんなの診療所を開業しました。この時は、若手教育に関わることができるとは思っていませんでした。離島の小さな診療所にそのニーズはないと思っていましたし、地域の方々もそれを望んではいないと感じていました。ですが、2023年に県立大島病院、大阪のりんくう総合医療センターから地域研修受け入れを開始しました。そして、今年は小徳が総合診療専門医の専攻医として当院で勤務しています。また、家庭医療専門医研修の小児科外来研修として名嘉先生が月に2回外来研修にきてくれています。まだ開所して5年、離島の小さな、個人診療所にこれだけ多くの医師が関わってくれることに今も驚きを隠しきれません。ですが、これが奄美という土地の、そしてこの診療所の強みなのだと私が信じ切ることこそが、5年後、10年後の診療所の成長にそして、奄美の地域医療の明るい未来に繋がっていくのだと感じるようになりました。

*地域研修で来てくれた先生たち:2023年から今年の3年間で13人の地域研修の先生方を受け入れさせていただきました。1ヶ月という短い研修期間にも関わらず、皆一生懸命で、私にのみでなく、スタッフにも、患者さんにも礼儀正しく、丁寧に接してくれました。りんくう総合医療センターから来てくださった先生方は奄美大島という土地自体も初めての方が多く、島の自然や人の温かさに触れて、奄美を満喫してくださっています。いつも、多くの診療科の医師のサポートがすぐに受けられ、CTやMRI、内視鏡検査、高度な血液検査などがいつでもできるような施設と比べると、自分の体一つで患者さんと向き合わなければならないこの環境にいきなり飛び込んできて、診療するということは実は結構な覚悟がいるのではないかと思っています。ですが、13人の先生方は全員がしっかりとこの場に、そして患者さんに適応し、真摯に向き合ってくれました。1ヶ月が終わることにはきちんとここで私が伝えたかったことは吸収してくれたんだなと感じることができました。そして、奄美を離れた後も、プライベートでまた奄美に足を運んでくれる先生方もいらっしゃいます。地域研修の先生方のキラキラした姿を見て、私が元気と勇気とやる気をもらっているのだとある時気づきました。奄美を離れた後も、この1ヶ月の研修が心の中に残ってくれていて、小さな診療所でも問診、身体診察を通して患者さんとしっかりと向き合うことは十分にできること、小さな医療機関に受診する患者さんが何を求めてきているのか、地域の中で町医者はどんな役割を話しているのか。どんな気持ちで高次医療機関に紹介しているのか。そんなことを心に刻んで、患者さんに、そして小さな医療機関で働く医師に優しい医師に育ってくれたら本当に幸せです。また、激務の日常の中で少し心がすり減ってきたら、奄美の雄大で包容力のある海に、静かで柔らかな空気の森に、奄美の太陽そのもののような人々の笑顔に癒されにまた奄美に訪れてくれる日があったら嬉しいです。
地域研修を受けれることにより、地域医療が若手医師に伝えることができることもある。それはどんな診療科に進もうとも、どんなに偉くなって多くの部下を持つようになっても、変わることのない医師としての根源的な普遍的な心なのだと私は考えるようになりました。

私をそんな気持ちに導いてくれた地域研修に来てくれた先生方に心から感謝申し上げます。
本当にありがとうございます。そして、これからも多くの若い先生方が奄美で、診療所で学んでくれたら嬉しいです。共に学び、共に成長できたら私はとても嬉しいです。
*名嘉先生:いつも穏やかで、的確にアドバイスをくれて、若手医師の教育にも熱心。島外から名瀬徳洲会病院に赴任してくれて、地域の中核病院のスタッフとして病院にはいなくてはならない大切な人材だと思います。そんな名嘉先生が月に2回、自分の持ち場を離れて小児科外来研修のため来てくださるということはとても意義深いものがあります。地域研修の先生がいるときは、その先生方への教育にも携わってくれます。私は名嘉先生とお互いの病院や診療所のことをはじめ、近況報告をする時間も含めてとても有意義な時間だなと思っています。そして何より、個人診療所と地域の中核病院がこのような形で交流があることは地域にとってとても良いことだなと思いますし、それを提案してくださった名嘉先生、元事務長には本当に感謝しています。小児の症例が決してとても多いわけではないのでいつも恐縮していますが、この繋がりができたことはまたひとつ診療所の存在意義を感じることができて、私の中の驚きであると共に、少し自信にも繫りました。名嘉先生、元事務長本当にありがとうございます。

*小徳先生:小徳が1年間診療所で研修したいと申し出た時、私は嬉しい反面、不安でした。私と同じ島外出身の彼は、産婦人科専門医を取得したのち、総合診療専門医になるため次のステップに進みました。その3年間の専攻医としての研修の1年を診療所でと申し出てくれました。彼には強い目的意識がありました。奄美大島という比較的規模の大きい離島で、お産の取れる総合診療専門医になるという目標です。果たして、その実現のために診療所は役に立てるのだろうか?彼の医師10年目としての大切な1年を無駄にしてしまうのではないか。彼のニーズにあったものが提供できなかったらどうしよう。そんなことが頭の中でずっとぐるぐるしていました。同時に、私は診療所が始まって以来一人で診療していたので、医師二人体制になることにより、私が楽をして、その分が小徳に降りかかっているという構図になってしまわないかも同時に心配でした。指導者として1年間彼を支え続けることができるのか。そんな不安が常に付き纏っていました。その不安は半年経った今も完全にぬぐい切れた訳ではありませんが、確実に私の中で何かが変わり始めていることを感じます。
奄美に再び戻っきて13年、若手の先生たちと一緒に働く中で、皆が自律的に学び、成長し、奄美を愛してくれて地域医療を支えてくれる姿を見てきました。しかし、それは、初期研修という決まったコースの一部、医局の派遣という枠組みの中での一部、自治医大の義務年限度内の勤務という制約のある中で自分の成長を最大化するために各自が努力した結果だと思っていました。でも、こうして文字にしてみるとそうでないことは明らかです。そして各自が成長していくと同時に組織も私個人も共に成長させてもらっていました。私は自分を過小評価することで、自分のもとで学んでくれた、共に奄美の医療を盛り上げてくれた仲間たちにも申し訳ないことをしているのではないかと思うようになりました。それを最も強く感じさせてくれたのが小徳です。
小徳は彼の能力を持ってすれば世界中どこでも医師として活躍することができるはずです。その彼が奄美大島を、みんなの診療所を選んでくれたことにはきっと意味がある。それをずっと考え続ける半年間でした。この半年間で診療所に起こった変化を少しずつお伝えしていきます。
1)患者さんの選択肢広がる
徐々に婦人科診療を求めて受診する方も増え、肩や足、腰の痛みなどで神経ブロックや筋膜リリースを求めて受診する方も増えてきました。医師二人体制で診療するため原の診療も含めて、ゆとりを持って診療できることが増えてきました。
2)スタッフへの教育も充実
スタッフ向けの勉強会も充実し、普段の日常診療中においても、何か疑問なことがあれば医師/スタッフ間のコミュニケーションは確実に増えています。
3)若手医師/学生教育の充実
地域研修の先生方にも私の身でなく、小徳も教育に関わってくれることにより、より奥行きのある地域研修ができるようになりました。また、SNSで積極的に発信している小徳を見つけて、見学にくる高校生や医学生もいました。学会参加しても小徳がいる診療所という認識をしている方もおられ、小徳を通して診療所を感てくれる人が増えてきているのは嬉しい限りです。
4)小徳の自己実現のサポート
小徳の将来の目標、お産が取れる総合診療医になるとう未来に向けて、彼は他にもたくさん挑戦したいことがあります。まずは、婦人科診療をみんなの診療所で開始することはある程度軌道に乗りつつあります。県立大島病院が人的に逼迫している時は診療所から応援に駆けつけることもありました。また、性教育につい手も熱意を持って取り組んでいますが、今年は応募が殺到したため、お受けすることができたのは3件のみでしたが、今後より継続可能な体制づくりのために現在、大島教育事務所、市町村教育委員会、県立大島病院、大島郡医師会、個人助産院など多くの方達を巻き込み仕組みづくりに着手しています。また、小徳のライフワークであるくらしの保健室を診療所としてサポートできるのかという命題はこの半年間私もずっと考えていましたが、小徳が診療所に来てくれることでより生活に近いところに医療のちょっとした困りごとがあるということを実感できるようになりました。診療所の在り方、通常診療との兼ね合い、経営面での課題など総合的に考えても、診療所として暮らしの保健室をサポートすることは必要と考え現在、その実現に向けて進み始めています。その他にも、奄美大島をフィールドにした地域医療からデータをとり研究として発信していきたいという強い意志を感じます。私としては全く想定にない分野だったので、初めは戸惑いましたが、小徳の活動自体が診療所のこれからを変えていくという考え方に至ったことで、その思いをもサポートすることがこれからの診療所の可能性を広げ、奄美の地域医療をより明るくすると思えるようになりました。
小徳が来てくれたことで私一人では絶対に見ることのできなかった景色を診療所で見ることができるようになりました。これが診療所の持っている潜在能力なのだと思うと私自身が生み出した診療所なのも関わらず、小徳の方がその秘めた可能性をよく理解しているのかもしれないと今は感じています。
これは小さな診療所であるフットワークの軽さ、個人立であるという自由さ、地域医療を主眼として地域のためになるのであれば何にでも取り組むという診療所の在り方だからこそ成せることなのかもしれないと思えるようになりました。
小徳が診療所での時間をどのように感じてくれているかはさておき、私として、診療所としてはむしろ大いな気づきを与えてくれて、成長の機会を与えてくれました。そして、今まで、自分が取り組んできたことをもう少し肯定的に捉えて、自信を持って発信していっても良いのかもしれないと思うことができるようになりました。
思えば、今まで私は若い先生たちに繰り返し伝えてきたことがあります。それは今までの自分をなんとか肯定するための言葉のようでもありました。
誰もが教授によるような、偉大な論文を書くような、もしくはテレビに出るようなスーパーマンになれる訳ではない。でも、多くの出会いがあり、その出会いの一つ一つに意味があり、自分の血となり肉となっている。その出会い一つ一つが一輪の花だとすると、それらを束ねることで、世界に一つの自分だけの花束が出来上がる。それは唯一無二のものであり、自分らしさやあなたらしさになる。だから絶対的なロールモデルがいなくても、王道から外れても、丁寧に出会いや経験を束ねていけば必ず確固たる自分が出来上がる。だから、今自分の感じた進路を迷わず進んでほしい。気がつけばきっと美しい花束が出来上がっているはずだからと。
医師になって22年。気づけば、私の手元には多くの花が咲き誇り、きっと他にはどこにもない美しいブーケになりました。奄美の地域医療を盛り上げようという数々の花がそこにはひしめき合っています。
私一人には大きな力はないかもしれませんが、今まで私に関わってくれた全ての人がそれを作り上げてくれました。そして、共に働く仲間を信じて、その能力を存分に発揮してもらえるフィールドさえ提供できれば、地域の人達にも、そのほかのスタッフにも良い影響が出て、気がつけば地域全体が成長し、後ろを振り返ればしっかりと道ができていました。
この今の奄美の医療を、そして地域医療を実践するフィールドをもっと胸を張って外に向けて発信しても良いのではないかと思えるようになりました。このような気持ちになれるまでには本当に長い時間がかかりました。ですが、これからもっともっと奄美の医療を盛り上げいくために仲間を増やしていくためには必要な気持ちの切り替えだったと思います。
私に関わってくれたすべの人が、今の私を形作ってくれました。本当に本当にありがとうございます。この美しいブーケをこれからも大切に育てていければと決意を新たにしています。






