みんなの診療所をご利用の皆様。年始の原の新型コロナ感染に続き、講習会受講のために休診をいただいております。ご不便をおかけして申し訳ありません。
その分、この数日間、原は何をしていて、そして何を感じたかをこの場でお伝えしたいと思います。
私は診療所を開所して以来島外に出たことはなく、2年8ヶ月ぶりの島外への移動ということになりました。その間、島にずっと留まっていたのは、みんなの診療所が奄美に生まれてこれから奄美で育っていくにあたり、地域の皆様にその存在を受け入れていただけるのかを肌で感じるためでした。片時も奄美の医療の現実から目を離すことなく、今、自分の目の前で何が起こっているのか、自分が今の場所に身を置くことによって何を感じるのか。そこに集中したいと思っていたからです。
今回、診療所をご利用していただく皆様にご不便をおかけしてでも、島外に出ようと思った理由からまずはお話したいと思います。
1)産業医講習会~そもそも産業医って何?~
今回、私が島を出た理由は産業医資格の更新のために5年間で20時間の講習の受講が必要だったからです。診療所開所前の5年間は準備から、県病院での引き継ぎ、実際に開所してからの診療所運営、新型コロナウイルスとの対峙などの影響で、島内で行われている講習会には全く参加できませんでした。この9月までに更新しなければならないため今回まとめて14時間の講習を受けてきました。土日開催のため前後泊での移動となったため金曜日から月曜日までの休診となりました。
さて、それでは産業医とは一体なんでしょうか?私は何故産業医をしようと思ったのか?せっかくの機会ですのでその辺りもお話できればと思います。
産業医とは?と検索すると一番上に東京都医師会のwebsiteが表示されますが、そこにはこのように記されています。
産業医とは、事業場において労働者が健康で快適な作業環境のもとで仕事が行えるよう、専門的立場から指導・助言を行う医師を云います。
産業医学の実践者として産業保健の理念や労働衛生に関する専門的知識に精通し労働者の健康障害を予防するのみならず、心身の健康を保持増進することを目指した活動を遂行する任務があります。
https://www.tokyo.med.or.jp/sangyoi/whats
つまり、職場での事故や病気を防ぎ、職員が健康でいられるお手伝いをする役割です。そのために職場環境や作業の手順の改善、職員の健康診断の解釈や面談などを行うのが産業医の仕事です。もちろん、細かく言い出すとこの説明が適切でない部分もあるかと思いますが、産業医というものに全く馴染みのない方に簡単に理解していただくには概ね間違いのない表現だと思います。
職員が50人以上の事業場には産業医の専任の必要があります。奄美ではそれほど多くの事業場がこれに該当することはないのかもしれませんが、実際に実務を行うことより、私はその概念こそが大事だと思ったため、前職である県立大島病院救命救急センター勤務時代に、産業医の資格を取りたいと考えるようになりました。何故なら、職業柄、仕事中の事故による救急搬送をよく診察していたからです。時としてそれは重大な事故であり、生命に関わるようなものも当然あります。もし、それを未然に防ぐことができるなら、手を打たない方法はないと感じました。そのため、50時間の講習を経て産業医の資格を得ることにしました。
例えば、作業場の換気、明るさ、動線の変更や、服装や防護具の着用、安全管理のための手順徹底などを行うことで病気や怪我を未然に防げるのであればそれはとても素晴らしいことだと思いました。
そして、いつか、診療所が軌道に乗って、安定して診療をできる状態になったら、本来であれば産業医の専任の必要なない、会社や作業場にも出向いて、そのような発想を共有することができたら地域に密着した医療機関として素晴らしいことだと考えていました。さらに同じ考え方は、一人暮らしの高齢者の自宅などでも活用ができると思いました。転倒をするのは部屋が暗くて段差が見えにくいからではないか?床の素材が滑りやすいからではないか?などの視点で訪問診療をなどを行うこととつながると考えたのです。
そして、実際に今、産業医をさせていただいている会社もあります。コロナのこともあり、なかなか十分に産業医としての仕事ができず、専任していただいた会社様には大変申し訳ないと思いつつ、少し現状に余裕が出れば少しでも職場環境の完全、職員さんの健康維持のためにもう少し踏み込んだ活動ができたらと思っています。
そして、もし、このような活動をより規模の小さな事業場にも広げていくとなった時は、これは無償でいうことになります。今、専任していただいている会社様からは対価をいただいてその活動をさせていただいているのですが、決してその活動は対価に見合う十分なものとは言えないと自分では自分自身の活動を大いに反省しています。そのため、まずは産業医としての使命をある程度果たせるようになったそのさきにその裾野を広げていくことになります。今すぐということはないと思いますが、もし機会があれば少しでも職場における健康増進に寄与して奄美が『もっともっと元気に』なるお手伝いができればと思っています。それこそが、今、怪我や病気で困って診療所に来てくくださる皆様のみならず、今の自分は医療機関とは縁がないと思っているお元気で働き盛りの方も『みんな』に関わることができる『みんなの診療所』の本来の姿だと思っています。
まだ医療機関に受診するには至っていない段階から関わりたいと思っている。奄美の元気を支える診療所でありたいと願う、『みんなの診療所』の根幹を成す概念を再確認するため、今回は長い休診期間をいただき、講習の受講に行ってきました。その分、得るものは大きく、誰もが知るような大企業の専属産業医の先生たちからそのノウハウを少しだけ分けて頂きました。すぐに目に見える形でとはいきませんが、普段の診療でも何かしらその知識を活用し少しでも皆様に還元できたらと思っています。

2)久しぶりに東京を歩いて
私の実家のある東京に3日間滞在しました。
今回講習会うけた日本医科大学への道のり、最寄りの駅から会場までの10分ほどの間に内科クリニック3件、眼科1件、整形外科1件、精神科1件と6件のクリニックが存在しました。講習の後に東京駅周辺を歩いていると徒歩で行ける範囲にも駅が密集しています。どの店に入っても若い店員さんが活躍していて、電車の中は外国人も多く、実家の周辺ですらオシャレな店が軒を並べいています。羽田空港の駐車場を見ると高級外車やレクサスのなんと多いことか。電車の中では友人や家族と話をしていないほぼ全ての乗客は下を向いてスマホを見ているか、眠っています。
人や物やサービスが溢れていて、相対的に自分の存在の小ささを感じました。そして、この街にいながら奄美のことに想いを馳せる人が一体どれくらいいるのだろうとふと思いました。きっと、明日、奄美大島全体が海底に沈んで無くなったとしても、数日ニュースを賑わすだけで、この街はそれからも何事もなかったようにこの目まぐるしい人や物やサービスに包まれながら変わらない日常が繰り広げられるのだろうななどという思いが頭をよぎりました。
コロナで自宅療養していたり、このように島外を離れると、ごった返していた診療所の発熱外来の様子からは一転して、自分の周りには本当は新型コロナウイルスなんて無かったのではないかと思えるほど、穏やかな日々があります。
実際に自分が罹患し療養していたり、まだまだ連日、それなりの陽性者を出し、さまざまな感染症対策が続けられている、混雑した電車の中にいてさえ、目の前の発熱外来の光景と比べると、その何事もないかのような光景に、自分の目に見えているものの大切さ、自分の目に見えていないものを感じる難しさというものを突きつけられるようなこの2023年1月でした。
2022年の1年間新型コロナウイルス感染症第6波に始まり、7、8波といくつかの波を乗り越える中で、この光景を目の当たりにしている人とそうでない人の間の温度差を埋めることなどできる訳がないなと、この1月自分が体験したことを考えると理解できます。
自分が感じているものを人に理解してもらうこと。そしてさらに理解した上で共感してもらうことにはとても高い高いハードルがあるのだなと痛感しました。だからといって、自分の目指したいものを諦めるわけではありません。目の前の自分にできることを一つ一つ積み重ねていく。今まで続けていたように、これからもそれを黙々と続けていくしかないと、この東京滞在で再確認することができました。医療のみならず、きっと、その他のことも同様です。この大きな国が、この大きな都市が奄美のために何かしてくれることはないでしょう。何故なら強く意識しなければ奄美のことを考えることすらないからです。
自分達の目の前のことは自分達で声を上げていく、作り上げていく。それ以外に自分の目の前の景色を変えていく方法はないなと感じるこの3日間でした。

3)島に来るもの、島に留まるもの、島を出ていくもの
今、東京の実家には私の母と長女楓が二人で暮らしている。東京で生まれ育った私が奄美へ移り住み地域医療を始めたかと思えば、楓は島を離れ東京の生活を満喫しているようだった。これからまだまだ無限の可能性を秘めている楓には是非、この街で色々な経験をして、色々な考えにふれ、色々な学びを深めてほしい。そして、自分が幸せに暮らす選択ができると嬉しい。そしてそれには自分の周りの人にも幸せなってもらうことが同じくらい大切だということを経験を通して感じてほしい。そして、10年後、自分がどうなっているか、自分の生まれ育った島がどうなっているかを感じながら、楓たちの世代の世の中を主体性を持って生き抜いて欲しい。その未来を誰かのせいにするのではなく、自分の手で切り開いて作り上げていく人であってほしい。そんなことを感じました。
若い人材はどうしても、一度は奄美を離れる時があるでしょう。そういう若い人たちが島を出て自分達の未来を描く中でも奄美が生き生きと存在し続けるためには、逆に島の外から奄美を選んでくれる人、島の良さを感じて島に留まる選択をした人たちにとって、居心地の良い島となることはとても重要なことだと感じます。奄美と東京を行き来する中で、そんなことを考えていました。
明日からはまたいつもの診療に戻ります。
目の前の人に全力を尽くしつつ、自分の思い描く奄美の医療の未来は決して諦めず、一人の移住者としても、島生まれの妻や子供たちの夫や父としても、奄美がこれからどうなって欲しいかという質問を常に自分に問いかけ続け、自分にできることを一つ一つ実行していきたいと思います。
引き続き皆様の応援サポートよろしくお願い申し上げます。